サトチヒロはなぜ絵に水晶を貼っているのか(2)



前回の続きで「いつどのように水晶と出会ったかを書きます」と書いたのですが、その後改めて考えて、個人的な出会いの事実よりも、僕が何を考えて絵に水晶を貼ったのか、先にその経緯や概念的考察を書いた方が、明確に水晶の絵について理解してもらえると思いました。 僕と水晶との出会いは、まさにアートとしてのコンテクストの中で起きたことでした。その辺のお話を書きたいと思います。


空気の記憶

前回書いた、僕が自分の作品でずっと描きたいと思っていた一人ひとりの中に眠っている記憶は、同じようでいて一人一人の体験によって違います。

ただ、より多くの人と共有できる共通項が必ずあるはずだというのは、直感的に感じていました。 そして、その共通項とは何か?を作品で皆さんに問いかけることが、僕の絵描きとしての目下の課題であると思っていました。

そしてそれが、僕の長年のテーマである「光と色」そして先に述べた「風」、そしてそれらを純化した「空気の記憶」です。 僕には水晶を貼ってない作品に「光、色」そして「風」を描いた作品が何点もあります。

空気は誰もが意識せずに吸ったり吐いたりします。 幼い頃、未来に対する心配も不安もなく、その日その日を生まれて初めての経験として生きていた時に吸っていた空気の匂い、味、温度、呼吸です。

それは誰しも、本当は大切なものでありながら、また心の奥底に大切に持ち続けながら、次第に忙しさや社会の中で深みに置き忘れてしまっていたものです。

それを認知の表に出せた時、本来の無垢な自分に立ち戻り、本当に大切なことは何かを思い出すのです。 その時初めて、本当に守りたいもの、希望に満ちた未来の姿へと想いを馳せることができることは、瞑想のお話の時にも書きました。

そんな、見る人の中に眠っていた記憶と空気の残像を、一気に開放する役目を果たしたいと考えていました。

ある程度の、例えば風景に宿る空気感ならば、油彩による表現でも共有は十分可能です。

でもやっぱり、もっと原初的なものが強く欲しい。油彩の深い表現は絵の世界の深みに連れて行ってくれるが、まだ見る人の視覚の鋭敏さや表層的な記憶に頼っている。 もっと積極的に、絵の方から見る人に働きかけ、深層心理の奥底に眠っていた空気の感覚を思い出して欲しいのです。

自分のアートにおけるこのようなコンテクスト(美術的文脈)の位置を見定める過程で、僕は水晶というマテリアルと出会いました。

水晶は、二酸化ケイ素の結晶です。何万年もかけて結晶化したモース硬度7の無色透明な鉱物です。ガラスよりも屈折率が高く、電気的にも、水晶発振機に使われるように不思議かつ面白い特性がたくさんあります。そして下の絵の色を殺さずに立体として存在してくれます。


美術史的観点からみた水晶

美術の歴史を振り返ると、20世紀以降の絵画というのは、ある意味で「平面であること」への反抗の歴史でもありました。

ピカソはオブジェクトそのものをキャンバスに貼り込み、フォンタナはキャンバスをナイフで切り裂き、「絵の向こう側」を見せようとしました。キーファーは砂や鉛や藁をキャンバスに持ち込み、テクスチャーに意味と重量を持たせました。日本にもまるで建築や建具の如くマテリアルで構成された「壁掛け」作品がたくさんあります。 絵画はもはや「描かれたもの」だけではない、という認識が、現代アートの大きな流れのひとつです。

僕が水晶のさざれをキャンバスに乗せたのもそういった文脈の延長線上にあります。


「意味」を超えて「体験装置」に

現代アートでは、素材はしばしば社会批評や時代の象徴として使われます。

でも僕が水晶に託したのは、そういうことではありません。 一つは水晶の反射と透過、そして、屈折です。 水晶の細石をキャンバスに定着させると、鑑賞者が少し動くだけで、絵の色、輪郭、反射光がまったく変わります。同じ絵が、立つ位置によって違う表情を見せる。それはもはや「見る絵」ではなく、身体で経験する絵になります。

絵画が固定された像ではなく、光の現象になる瞬間、この素材の本質があると思っています。


東洋の精神性と、西洋の抽象絵画が出会うもの

もう一つは、水晶が持つ神秘的な精神性です。 西洋の抽象絵画は、どちらかといえば、形の探求として発展してきました。色や形そのものを突き詰めて、意味を見出していくという方向です。いわゆる「認知の拡大」です。

一方、僕の中にある抽象への関心は、それとは違うところから来ています。内面の変化、意識の動き、目に見えないものへの意識。つまり「感覚知の拡大」といったものを、絵として表そうとしてきました。

水晶は、その両方を橋渡しできる素材だと感じています。物質としての鉱物でありながら、光を介して意識に直接働きかける何かを持っています。そこには水晶の結晶が持つ電気的特性も寄与していると考えています。時計などの発振機も使われるほどの規則性、圧電性。それが直接目の前に、部屋の中に存在する、水晶の下に描かれた絵、色、形を通してそれは確かに増幅して行きます。 「見て考える」と共にそれ以上のサムシングを、感覚知として味わう体験を、僕自身が経てたどり着いた結論です。

ことあるごとに「見る絵以上に、浴びる絵」という表現でコンセプトを説明しているのはそのへんが根拠になっています。

東洋的な精神性と、現代絵画の認知探求が、この素材の上で自然に交差すると主張するのはそれが根拠になっています。

近年、国際的なアートの世界でも、感覚や精神性の回復を志向する動きが出てきています。コンセプトだけでなく、体験や知覚そのものを問い直す流れです。水晶の絵が目指す方向は、時代の空気と共鳴出来ると考えています。


「機能するアート」へ

正直に言えば、課題もあります。 水晶を使った絵は「珍しい技法」であるが故に、その特異性が目につきます。しかしながらその本質は珍しさではありません。

僕が目指しているのは**「光と色が目に見えない波動となって身体と心が受け取る体験によって、見る人の感覚知と意識を結びつける装置としての絵画」**です。

元々工業デザイナー畑が長かったということも影響していると思いますが、僕はアートにしても工芸にしても、それは何らかの機能を果たす存在であると考えています。 しかし今のアート界では作り手までもが「役に立たないからアート」みたいなことを言います。 それは断じて違います。 そんなぼんやりした観念は僕は真っ平ごめんです。

アートにしても音楽にしても、それまで無だったところに存在して、人の認知を、知性を、世界をたくさん変えてきました。誰かを救ってきました。

その事実と可能性、方向性を、もっと明確な言葉と理論で語れるようにしていくこと。それが、制作と同じくらい大切な仕事だと感じています。(了)


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