
現代社会では、多くの人が「頭」で生きています。 朝から晩まで情報を処理し、SNSを見て、比較し判断し、正しさを求め続ける。便利になった反面、人は少しずつ「自分が何を感じているのか」を見失い始めています。
かつて養老孟司氏はこれを「脳化社会」と呼びました。身体感覚よりも、情報や理屈が優位になった社会です。氏がこの言葉を使った時代よりもさらに、SNSやAIの影響が進み、情報過多になり、人間は脳化していると言えましょう。
本来の人間は、理性だけで生きている存在ではありません。 説明できない違和感、なぜか惹かれる景色や色、合理的ではないがそうしたい気持ち。そういう非言語的で非論理的な感覚が人には備わっています。これを非認知領域と呼びます。非認知領域が発揮されて初めて人は本来的な理性を保てるはずなのですが、都市生活や情報過多社会の中でそれは抑圧され、失われています。
僕が「水晶の絵シリーズ」を作り続ける理由の一つは、この問題にあります。絵を通して、人がこの非認知領域における身体感覚を取り戻すきっかけにしたいと思っているのです。
今回は、以前の記事でも書いたお話も再出させながら、水晶の絵が、引いてはアートというものが、身体感覚をどう取り戻してくれるかのお話をまとめとして書いてみたいと思います。
人は頭だけで生きると、感覚を失う
理性。人間が社会を構成し、文明を維持発展するために必要不可欠なものです。それは脳、特に前頭前野の働きです。そして人間社会は感情よりも理性が正しいものとして処理されます。
しかし、その状態をあまりに強く長く続けると、人は少しずつ感覚的な能力を失っていきます。 本当は疲れているのに、まだ頑張れると無理をする。本当は苦しいのに、合理的な理由で自分を納得させる。本当は違和感があるのに「正しいから」という理由で進み続けてしまう。評価を気にする。正義不正義、正解不正解で物事をジャッジする。
人間は、本来もっと身体的な存在です。 風の匂い、湿度、空気感、色彩、光、気配、快不快、予感……。 そうした言葉以前の感覚によって、人は深い部分で世界を認識しています。それが自己の基盤です。
にも関わらず、情報を果てしなく追い求めてそれに縋ろうとする。ところがどれだけ正しい理屈を積み重ねても、人間の根底には、正しい正しくないを超越した身体感覚がある。 この身体感覚を無視した理性は、やがて矛盾を心の中に溜め込んでいきます。これがストレスです。
脳化社会と、感覚の衰弱
ストレスが続くと、自律神経が乱れてきます。自律神経の暴走の前兆は「妄想」です。ここで言う妄想とは、未来への不安です。比較、期待と現実のギャップ、承認欲求、競争、評価、効率、数字……。頭の中に、まだ起きてもいない未来が大量に発生し始める。そして、その妄想に支配されていく。
自律神経の暴走が続くと、やがて身体の維持機能が損なわれて心の病に繋がり、気づいた時には器質の変化まで及ぼし始めます。これを防ぎ止めるためには、この妄想から抜け出す他ありません。
禅では「莫妄想」という言葉があります。 妄想から離れなさい、という意味です。 人間本来の身体感覚を取り戻し、「自己に立ち返る」という作業です。それを「真我」と呼びます。 しかし現代社会は、なかなか日常的にその莫妄想〜真我の状態を作り出すことが難しいのも事実です。むしろ日常生活では、妄想(の不安)から抜け出すためによりその逆へ向かって努力してしまう。その結果、自分の感覚より、情報を信じてしまう。その結果頭で考える。まさに悪循環です。 では、妄想から抜け出して「感覚の回復」を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか。
省察情動というもの
僕は、自分の作品を作るにあたって、その根底にある、鑑賞行動で起きる心理を「省察情動」と呼んでいます。
情動ですが、単なる感情ではありません。また、合理的判断でもありません。 省察情動とは、理性を超えた感覚知です。自己認知による合理的決断や選択を知りつつも、より深い、内省的で非言語的領域での直感を意識的に呼び起こし、そこに沿いながら理性的にあり方を決めるものを言います。
外界の刺激、ここでは仮にアートとしましょう。その刺激によって鑑賞と内省行動が促されます。それは自分の直感を刺激します。「美しいな」「ステキだな」から「こう見える」「こんな感情になる」に感想が深化し、そう見えた自分自身と向き合い、自分の内側に潜っていく、さらには何も考えずにそれを見ている自分がいる「無我」が呼び起こされます。その結果、直感が研ぎ澄まされていくのです。
人は本当に大事な決断をする時、実は理性だけでは決めていません。説明できない直感、不合理にも関わらずなぜか惹かれる方向、身体が反応する感覚、そういうものによって、人生の重要な選択は決まっていきます。
そして、その感覚は、情報の騒音の中では聞こえません。ある種の刺激によってのみ惹起されるものです。 それは自然であったり、美しい音を聴いたり、美しいものを見た時であり、また、ある種のアートであったりします。
水晶の絵とは何か
水晶の絵は、綺麗なだけでなく、その無我と直感に訴えるコンセプトを持っています。 水晶は単なる装飾ではありません。水晶の細石は、色を屈折透過させ、光を乱反射します。見る角度や時間帯、光量、距離、その日の気分によって全く変わります。つまり、絵が固定された視覚情報ではなくなります。
そこには「揺らぎ」があり、人間の心の揺らぎと共振します。そして人間の感覚は、この揺らぎの共振によって、自己修復が起きるのです。 焚き火の炎、湖面や海面の光のゆらめき、木漏れ日の揺れなど、人は昔から、そうした不規則な揺らぎの中に、深い安心感や瞑想性を見出してきました。 水晶の絵シリーズは、その感覚を、現代空間の中へ持ち込もうとしているのです。
色彩と身体感覚
僕は、絵を「意味」で描いているわけではありません。言葉になる前の感覚で描き始めます。 色彩は光の反射の周波数帯ですが、元々人間の心理や自律神経に作用する、説明以前の力があります。
赤を見ると高揚する、青を見ると冷静さを感じる、緑を見るとカームダウンする、金色を見ると意識の感覚が上昇するなど、自然、人工を問わずそれぞれ単色で作用したり、組み合わせによっても様々な作用があります。それは知識でも理性でもなく、身体感覚です。
そして、水晶による屈折透過と反射は、その色彩をブースト、または減少させながら揺らぎを作り、可視範囲を超えて人間の心へと入り込んでくれます。 光が視覚を飛び越えて身体へ直接届いている感覚さえ受けます。
僕はそこに、水晶の絵の根幹を感じています。また水晶の絵の所有者の多くが、不思議な身体感覚、省察情動を感じています。
アートの責任
現代アートは、長い間「意味」や「構造」を追求してきました。 もちろんそれは重要です。 しかし同時に、冒頭で述べたように、理性の洪水によって人間そのものが疲弊している時代において、アートは別の責任を持ち始めていると僕は思っています。
それは、人を非認知的な身体感覚の豊かな自己へ戻すことです。失われた感覚を取り戻し、回復する装置として、アートは機能し始めます。 それを僕は「アートは機能する」と言っています。 それは、実用品になるという意味ではありません。人間の身体感覚と理性の調和、すなわち「省察情動」に作用する、という意味です。
自己を取り戻そう
人は、割と簡単に自分を見失います。自我と思っていたものと社会的要請への固執がないまぜになり、悪戦苦闘しているうちに、一つの機械のようになってしまう。しかし本来、人間の奥底には、もっと静かな自己があります。
それは、言葉になる前の存在感覚です。 水晶の絵シリーズは、その場所へ戻るための装置なのだと思っています。
呼吸が変わり、頭の中が静かになり、自己の見え方が変わる…もしそういう瞬間が生まれた時、アートは単なる視覚鑑賞物を超えて、身体感覚を取り戻す大きなきっかけとなってくれることでしょう。
▼水晶の絵シリーズは、東京都渋谷区神宮前4-17-16 1F アートストンギャラリー にて見ることができます。(木曜を除く13〜19時、日祝は18時まで)
▼WEBでの閲覧、ご購入は
【アートストンギャラリーネットショップ】https://artston.shop/
【ギャラリータグボート】https://www.tagboat.com/products/list.php?author_id=1007420
をご覧ください。

